最近めっきり寒くなったため、もう冬物の洋服出してきました。もうすでに朝10℃以下になるって聞いたけど…(゜Д゜;。
さて先日とある本を読んでいたのですが、面白い内容があったので思い出しながら書いてみます(おそらくどこか都合のいい解釈してたりするのはご勘弁w)。
その本のあるところで「心のカウンセリング」について述べていました。その中でも「トラウマ」。
「トラウマ」とはとある恐怖や身の危険を感じるどうしようもない場面に遭遇した時、以前似たような経験がよみがえり、平常に動けなくなることである、と。しかし最近は「昔いじめにあってトラウマになった」というような使い方があるが、それは少し違っているのではないか?と問題を指摘していました。
どういうことかというと、「いじめにあったことがトラウマになる」ことは「どうしようもなかった状況」ではなく、「どうしたらいいのかわかっているのに、その行動がとれなかった」ことによる自分の中の溝が出来ていることが問題だということです。
いじめをされて嫌だと思った時にどうすればいいのか?答えは簡単です。「嫌だ」と言えば良いのです。しかしおおよその場合そう簡単には解決しません。そして関係が悪化することを恐れて言えなくなってしまいます。
人間は自分が正しいと考えていること、もしくはやりたいと思っていることと違う行動をしてしまうとストレスが発生します。つまり心と体が一致していない時、ストレスを感じることとなります。
いじめにあって嫌だと思っているのにそれが口に出来ない。これが心の溝を生み、それが「トラウマ」という言葉を使いたくなるくらい深くなってしまう。そして自分が困っている時に一番そばにいるのに助けてくれなかった自分との溝によって苦しむ…ということになります。これは心の溝であって、自分が強く意識しているため「トラウマ」ではないのではないか?ということです。
またいじめでの心の溝が深い子は、いじめていた相手とその子との関係修復もそうですが、その子とその困っていたときに助けてくれなかったその子の心と向き合うことも重要であるとその本は指摘していました。
この考えを知った時、なるほどなぁと思いました。心と体が一致していない時にストレスを感じる、というところと、何より「一番困っている時に一番そばにいるのに助けてくれなかった自分がいる」ということを認識するようになりました。
ここからは自分の話です。
自分は傷を負うようないじめを受けたことがないので、いじめについては何も言えませんが、「一番困っている時に一番そばにいるのに助けてくれなかった自分」には大いに心当たりがあります。
小さなことでは「今日掃除するぞ」と思っていてもやらなかった自分から大きな事では今後の将来を決める選択のようなことまで自分は自分の味方ではなかった時があります。自分は自分によく嘘をつきます。
これまで人のことを憎いと思ったことはほとんどありませんが、自分を憎いと思ったことは多々あります。人に「死ねばいい」と思ったことは記憶の限りないですが(あったらごめんなさい)、自分に対して「死ねばいい」と思ったことは何度もあります。
原因はどうやら溝みたいですね。
正直な話、自分を信用していない節があります。
他人の小さな嘘は許せます。なぜならその人よりも嘘つきな人を知っているから。
他人の欠点はたいがい受け入れられます。なぜならその人よりも役に立たない人を知っているから。
他人の言葉を簡単に信じてしまいます。なぜならその人よりも信用出来ない人を知っているから。
知らない間に「信用できない自分」がいたと思います。何度も嘘をつかれたし、悩んでいる時やピンチの時に駆けつけてくれませんでした。どの段階で信用できなくなったかわかりませんが、時々憎むようになっていました。
自信がある人はちゃんとした信頼できる自分があるんだと思います。羨ましいです。
ただ自分が憎いと思っているため他の人を憎いと思わないのはゆがんだ見方をすれば良いこと?なのかもしれませんw。
一生付き合っていく自分のため、いつまでも信頼出来ない自分ではいつか困ってしまいます。自分を信頼して自信が持てるようになりたいです。そのためには自分ともっと向き合っていく必要がありそうです…。
さて先日とある本を読んでいたのですが、面白い内容があったので思い出しながら書いてみます(おそらくどこか都合のいい解釈してたりするのはご勘弁w)。
その本のあるところで「心のカウンセリング」について述べていました。その中でも「トラウマ」。
「トラウマ」とはとある恐怖や身の危険を感じるどうしようもない場面に遭遇した時、以前似たような経験がよみがえり、平常に動けなくなることである、と。しかし最近は「昔いじめにあってトラウマになった」というような使い方があるが、それは少し違っているのではないか?と問題を指摘していました。
どういうことかというと、「いじめにあったことがトラウマになる」ことは「どうしようもなかった状況」ではなく、「どうしたらいいのかわかっているのに、その行動がとれなかった」ことによる自分の中の溝が出来ていることが問題だということです。
いじめをされて嫌だと思った時にどうすればいいのか?答えは簡単です。「嫌だ」と言えば良いのです。しかしおおよその場合そう簡単には解決しません。そして関係が悪化することを恐れて言えなくなってしまいます。
人間は自分が正しいと考えていること、もしくはやりたいと思っていることと違う行動をしてしまうとストレスが発生します。つまり心と体が一致していない時、ストレスを感じることとなります。
いじめにあって嫌だと思っているのにそれが口に出来ない。これが心の溝を生み、それが「トラウマ」という言葉を使いたくなるくらい深くなってしまう。そして自分が困っている時に一番そばにいるのに助けてくれなかった自分との溝によって苦しむ…ということになります。これは心の溝であって、自分が強く意識しているため「トラウマ」ではないのではないか?ということです。
またいじめでの心の溝が深い子は、いじめていた相手とその子との関係修復もそうですが、その子とその困っていたときに助けてくれなかったその子の心と向き合うことも重要であるとその本は指摘していました。
この考えを知った時、なるほどなぁと思いました。心と体が一致していない時にストレスを感じる、というところと、何より「一番困っている時に一番そばにいるのに助けてくれなかった自分がいる」ということを認識するようになりました。
ここからは自分の話です。
自分は傷を負うようないじめを受けたことがないので、いじめについては何も言えませんが、「一番困っている時に一番そばにいるのに助けてくれなかった自分」には大いに心当たりがあります。
小さなことでは「今日掃除するぞ」と思っていてもやらなかった自分から大きな事では今後の将来を決める選択のようなことまで自分は自分の味方ではなかった時があります。自分は自分によく嘘をつきます。
これまで人のことを憎いと思ったことはほとんどありませんが、自分を憎いと思ったことは多々あります。人に「死ねばいい」と思ったことは記憶の限りないですが(あったらごめんなさい)、自分に対して「死ねばいい」と思ったことは何度もあります。
原因はどうやら溝みたいですね。
正直な話、自分を信用していない節があります。
他人の小さな嘘は許せます。なぜならその人よりも嘘つきな人を知っているから。
他人の欠点はたいがい受け入れられます。なぜならその人よりも役に立たない人を知っているから。
他人の言葉を簡単に信じてしまいます。なぜならその人よりも信用出来ない人を知っているから。
知らない間に「信用できない自分」がいたと思います。何度も嘘をつかれたし、悩んでいる時やピンチの時に駆けつけてくれませんでした。どの段階で信用できなくなったかわかりませんが、時々憎むようになっていました。
自信がある人はちゃんとした信頼できる自分があるんだと思います。羨ましいです。
ただ自分が憎いと思っているため他の人を憎いと思わないのはゆがんだ見方をすれば良いこと?なのかもしれませんw。
一生付き合っていく自分のため、いつまでも信頼出来ない自分ではいつか困ってしまいます。自分を信頼して自信が持てるようになりたいです。そのためには自分ともっと向き合っていく必要がありそうです…。
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