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対価を求める

どうも消えかけていたポーさんです。感情の起伏のせいでちょっと疲弊しておりまする。

さて自分を見つめ直す機会があったのでちょっとばかしつらつらと書こうかなと思います。
自分は育ち柄か土地柄か、頼み事や頼まれごとをする時、「モノとモノの交換」とうようなことをしばしば考えます。例えで一番簡単なものと言えばお金です。お店に行って物を買う。等価交換です。
それがどうも物の交換だけではなく、「労力」「努力」「気遣い」「気配り」等のものまで等価交換で考えている節があります。
小さい頃に自分は親から「勉強をする」の対価に「ゲームをする」という躾をされてきました。馬の前にニンジンをぶら下げて走らせる的な考え方です。ご褒美方式。良くも悪くもこの考え方が今も残っている感じがします。
人に頼みごとをするのに対価がいる…そういう考えが何かある気がします。そのためか人に頼みごとをするときに自分でハードルを上げてしまい、頼みごとが出来ないということが結構あります。また頼み事だけではなく、「迷惑をかける」ということにも対価があると考えているためこれまた物事をするのにハードルを上げている感じがします…。「迷惑になる」というのは人の価値観の違いがあるため対価をつけるのは難しいはずのですが、勝手につけている感じです。はたして釣り合っているのかどうか。
逆に対価があればやる、ということになるのかも知れません。「お金は労働の対価だ」というように物をもらえるとうれしいものです。何であれ。ただ時々対価なしに「これあげるよ」と良いものをもらった時は困ります。「気持ちだけで十分です」と言われてしまうと余計困ります。…本当に対価なしでいいのかと。
気持ちが対価になることはあります。これはもらう側ではなくあげる側ですが、電車の中で席を譲るということがそうだと思います。電車の中でお年寄りに席を譲ると自分の気分が良くなりますw。これは対価だと思います。一種の自己満足ですが、おじいちゃんおばあちゃんが席に座れる対価だと思えば釣り合っているんじゃないかなぁと思います。無償の対価交換ができる電車内。
あとつり合いが取れない場合は席を譲らないとこもあります。電車で立っている人がおばさんかおばあさんか良く分からないときに天秤を使います。どうも立っている人が辛そうもしくは辛くなりそうな方の場合、自分が座っているよりも相手が座ったほうがいいので席を譲ります。しかし自分のほうが疲れていてあまり動きたくないもしくは気分が優れないときは天秤は自分のほうに傾きます。まぁ後々譲ればよかったなぁと後悔する時もあるので譲るべきなんですが(←オイ若者譲れよ!)。
お金がかからないやりとりなので自分は積極的に席に座り、席を譲りますw。下手なボランティアするより簡単に喜んでもらえたりしますw。

そしてこれまた逆にお金が絡むと自分は弱いです。バイトをしていて思ったのですが、お金がかかった商品を扱うのって怖いです…。特に高いのとなると恐れ多くて触れなかったですw。

冴えない自分なので頼まれごとをされるのはめったにないのですが、その際はあまり対価を求めていません…のつもりです。まぁ理由はわかっての通り冴えない自分の対価だからですw。今は良いですが、将来お金の奴隷にならないか心配です…。権力とお金には勝てん…。

立派な対価を求められるような自分にいつかなりたいです。(`^´)



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